会社案内

会社概要

会社名

有限会社 岩田自動車

代表取締役 岩田 久宗
所在地 〒506-0001
岐阜県高山市冬頭町70番地
設立 平成6年11月28日
会社法人等番号 2000-02-027957
適格請求書発行事業者登録番号 T3200002024957
資本金500万円
従業員数7名
業務内容 車検・整備・一般修理・鈑金塗装・法定点検
各種新車・中古車販売
保険取り扱い(自賠責・自動車保険・事故受付) ※JA、共栄火災代理店
登録事務手続き代行(名義変更・住所変更・ナンバー変更・廃車処理・検査代行など)
タイヤ・バッテリー・オイルなどカー用品類の販売
連絡先

TEL:0577-33-5446
FAX:0577-33-5372
MAIL:car-doctor.iwata@seagreen.ocn.ne.jp

定休日 日曜、祝日、お盆、正月
認証工場/古物商許可

中部運輸局認証岐第6187号(自動車特定整備事業)
岐阜労働局認証岐第151号(特定自主検査業者登録)
中部運輸局回送運行許可第5859号(分解整備自動車回送運行許可)
岐阜県公安委員会第531230001058号(古物商許可)

その他資格/加盟 自動車特定整備事業認証資格(全種)取得(令和2年12月)
コンピュータシステム診断認定店(平成27年3月16日)
特定自主検査(フォークリフト/車両系建設機械)(平成19年9月11日)
自動車分解整備事業認証資格(全種)取得(平成7年1月25日)
岐阜県自動車整備振興会会員
飛騨車体検査場維持会会員

スタッフ紹介

有限会社 岩田自動車
代表取締役 岩田 久宗
Representative director / Hisamune Iwata

略 歴

 昭和53年2月6日 岐阜県高山市にて誕生
 平成8年3月    岐阜県立高山工業高等学校 電子機械科 卒業 
 平成10年3月  三菱自動車整備専門学校 自動車整備科 卒業

 平成10年4月  岐阜三菱自動車販売株式会社(本社サービス工場)入社
 平成15年3月  同社 退社
 平成15年4月  有限会社岩田自動車 入社
 平成21年7月  同社 専務取締役就任
 平成27年7月  同社 代表取締役社長就任

保 有 資 格
 ・自動車整備士(中部二か31954号)  
 ・自動車検査員(岐教第2196号)
 
・自動車整備技術スーパーアドバイザー(岐阜認SA-000007号)  
 ・自動車電子制御装置整備主任者
 ・自動車運転免許(大型・大型特殊・大型自動二輪)
 ・特定自主検査者(検00061037号)
 
・低圧電気取扱者
 ・玉掛け技能講習修了
 ・アーク溶接技能講習修了 
 ・ガス溶接技能講習修了 
 ・フォークリフト運転技能講習修了 
 ・損害保険募集人 
 ・第二種電気工事士(岐阜県第18629号)
 ・第四級アマチュア無線技士(CATN00597)
 ・危険物取扱者(丙種・岐阜県第00373)




取締役会長 岩田 清和
President / Kiyokazu Iwata
*相談役(創業者・社長の父)

工場長 宇津宮 勝幸
Factory manager / Katsuyuki Utsumiya
*小型車整備担当


立道 和弘
Kazuhiro Tatemichi
*中型大型車(トラック・バス)・重機整備担当

取締役 岩田 紀子
Executive officer / Noriko Iwata
*経理担当(社長の母)

岩田 さゆり
Sayuri Iwata
*総務・事務・経理補佐担当(社長の妻)

中田 舞子
Maiko Nakada
*事務担当

広報部長 岩田 サブロー
Public relations manager / Saburo Iwata
*マスコット担当 (社長の舎弟)



取締まられ役 岩田 祐理弥
Be cracked down / Yuriya Iwata
*三姉妹監視ご意見番(社長の長女)

取締まられ役 岩田 紀和弥   
Be cracked down / Kiwami Iwata
*三姉妹中間管理職(社長の二女)



1688351256588 (1)

取りこぼし役 岩田 華久弥

dropout / Kaguya Iwata
*キュウリ隊長(社長の三女)




代表メッセージ

当社のホームページをご覧いただきまして誠にありがとうございます。
現在に至る岩田自動車を知っていただくには、まずはやはり私こと岩田久宗の簡単な歴史をご紹介させていただくのがよろしいかと思います。長くなりますが、かいつまんで当時のエピソードとともに振り返ってみたいと思いますので、少々お付き合いいただけましたらと思います。

岩田自動車、創業

平成6年11月、私の父(先代社長)・岩田清和が長年勤めあげた整備工場を退職し、独立開業したのが全ての始まりでした。当時の私は高校2年生、父が会社を辞めて自分の工場を建てるというのは事前に聞かされていましたがまだ学生の身分ですので、その流れに任せるしかなくただ横から漠然と見ていただけでした。細かいことはわかりませんでしたが、貯金をはたき、借金を抱えた岩田家ですのでただ一つ…家計は火の車なんだな、ここで転んだら後がないんだな、そんな雰囲気だけはひしひしと感じていました。父と母がとにかく死に物狂いなんです。そんな家の一大事を放っておくわけにはいかなかったですね。これは今となっては笑い話なんですが、当時の私は何を思ったのか、お金がないとやりくりに必死な親父に貯金を下ろして使ってくれとお金を渡したことがあったんですよ。たった20万ぽっちを封筒に入れて。そんな金額でどうなるわけでもないのに…今思えば本当に子供でしたね。でも、本当に両親を助けたかった、ただそれだけだったんです。もちろん仕事も手伝いましたよ。学校が終わるとすぐに工場に駆け付け、制服からツナギに着替えて働きましたとも。そのままみんなで午前様になるまで働いてから帰宅するという毎日を送っておりました。高校3年生といえば遊びたい盛りです。そんな時間も無くなりました。勉強も…元々テスト前の一夜漬けくらいしかしてなかったですが、さらにしなくなり成績も下降の一途。それまでは試験の成績もクラスで10位以内には常にいたのに、最終的には下から2番目に。昼は高校、夜は工場、それが私と岩田自動車の始まりです。

専門学校への進学

将来は何になりたいのか、その答えは小学生の時から出ていました。それは自動車整備士。まぁ間違いなく親父の背中のせいだとは思いますが、それが現実に実家が整備工場を始めたことにより確実的なものになりました。「他人の飯を食ってこい」、父の教えで高校卒業を期に高山を離れることを決意。平成8年4月、愛知県岡崎市にある三菱自動車整備専門学校に進学いたしました。慣れない土地での生活に最初は戸惑いましたが、若さもあってかすぐに慣れてしまいましたっけ。勉強はそれなりにちゃんとやっていましたが、とにもかくにも遊びまくってましたね。念願の車の免許を取ってマイカーを手にした私は、走り屋が出没するスポットに夜な夜な寮の仲間と出かけはとにかく走りまわっていました。週末には名古屋の街を徘徊。田舎者の山猿が都会の面白さに狂っていたんでしょう。生まれて初めて恋もしました、そして振られてしこたま泣きました。少年から青年へと変わる時期に過ごした岡崎市、思い出す度になんか心がキューっと切なくなる、そんな街です。

就職と共に始まった独り暮らし

平成10年春、そんな専門学校も2年で無事に卒業。三菱の学校でしたので、就職先も自然と三菱の販売会社(ディーラー)になるのが流れでした。会社訪問など就職活動もそれなりにこなし、そんな流れに乗って当時の岐阜三菱に入社いたしました。基本は自分の実家のある所在地の営業所配属ということでしたので、高山営業所に行くものと思っていましたが、なぜか降りた辞令は岐阜市内にある本社でした。寮と呼ばれる会社が用意したアパートから私の社会人生活の第一歩は始まりました。そして迎えた初任給。話には聞いていましたが、とにかく給料が安いのにびっくりしたのを覚えています。これはこの会社がって訳ではなく、整備士の仕事自体がそうですので仕方がない。こんなんでやっていけるのか、給料明細を見ながらとにかく不安でしかなかったのを覚えています。入社から1年半が過ぎたあたりのことでした。そのアパートの僕の部屋の上の階に頭のおかしい人が入ってきたんですよ。「騒音がする」「駐車の仕方が悪い」などなど、ちゃんとしていてもあることないこと会社の総務に僕への苦情の電話が入るものですから、嫌気がさして寮を出て自分でアパートを借りることにしたんです。6畳1ルームで家賃38000円、お金もないのでそんなところしか借りれませんでしたが、これでも生活がかなり圧迫しました。当時手取りで14万円ほどです。切り詰めれば十分に何とかなったものを若さゆえでしょうか、給料日前になるともう食うのもやっとなんですよ。こち亀の両さんみたいですよね。あ、借金こそはしませんでしたけどね。あれは冬場の冷え込んだ夜でしたっけ。アパートに帰ると電気がつかないんですよ。電気代が引き落とせなくて止められてたんです。寒さと飢えで布団をかぶって泣いた夜、今でも忘れません。身の回りの生活のすべてのことは自己責任であるということ、リアルに勉強させていただきました。

職場の人間関係で悩んだ新人時代

肝心な仕事でも苦難続きでしたっけ。僕の勤めていた工場は本社ということもあり整備士の数も他の拠点と比べて多いんですよ。そうなると、あるんですよね…派閥みたいなのが。入社1年目のぺーぺーですのでどっちつかずの風見鶏状態になっちゃうじゃないですか。そんな当時の工場に1人嫌われ者の先輩が居ましてね。仮にGさんとしましょうか。このGさんが中々の曲者でしてね。仕事はできるんですが気分屋で気性が荒いためにみんな避けてるような、そんな人でした。。私はなぜかその先輩に目をつけられてしまいまして、とにかく朝から晩までその先輩の機嫌をうかがいながら損なわないように気を付けていました。まるでジャイアンとのび太の関係みたいでした。仕事の指導もスパルタでしたね。工具が飛んでくるわ、後ろから蹴りが飛んでくるわで凄かったですよ。もともと技術のある先輩でしたので、その分整備士としての基本は叩き込まれたのは今になってみるととてもありがたかったとは思います。でも、物事には限度がありますよね。仕事場だけではなく、それがプライベートでも続くとなっては気が休まりません。いらない工具を買わされたり、服も買わされましたっけ。某歌手の新作アルバムが出てそれを買うと、なぜか僕が封を切る前に献上必須。コンパのセッティングをさせられた日には「化け物ばっかり連れてくるな」と罵倒され…もう言っとることがめちゃくちゃですよ。その他いろいろありまして私の精神は追い詰められていきましたっけ。そんな矢先にある事件が。あれは別派閥の先輩らと仕事終わりに焼肉に行った次の朝のことでした。その宴席でも「Gには内緒にしとけ」とさんざん言われていたのに、そのGさんがなぜかその情報を知っていたんですよ。「おまえ、夕べあいつらとどこか行ったんか?あ?」、そういきなり凄まれては私も答えるしかありません。休憩所で他の連中に嫌味を垂れるGさん。その日の昼休みでした。夕べの宴席にいた先輩達に工場裏へ連れていかれ取り囲まれましてね。もう裏切者扱いで罵倒ですよ。挙句の果てに胸倉を掴まれて、そのまま鉄くず置き場に投げ飛ばれてダイブしましたよ。なぜここまでしてこの会社にいるのかもうわからなくなっちゃいましてね。先輩たちが去った後に、不覚にも大の大人が工場裏の隅っこでシクシク泣いてしまいました。ここは本社です。そこにたまたま本館から工場へ歩いてきた常務と遭遇。そりゃ事情聴かれますよね。ですが答えれるわけがないじゃないですか。しかし常務がその足で僕の直属上司のところへ行きに尋問、そのイジメじみた事がここで上層部にも知られることとなるのです。上司に呼ばれてその辺りの事情聴取を受けたときに僕の腹は決まっていましたのではっきり言ったんです。「今年度いっぱいで辞めさせていただきます」って。技術に長けた中堅整備士を取るか、入社1年目のペーペー新人を取るか、そんなこと言うまでもなく前者でしょう。それがですね、その騒動からすぐのことでしたが、常務が満面の笑みで僕に言うんですよ。「来年の3月まで待っとれ。ここだけの話やでな。次の移動であいつは他の営業所に行ってもらう」。これは意外でした。特に裏工作があったとかコネがあったとか、そんなこと何にもありません。入社1年目ですので経験もなく、出来る仕事は新車点検や洗車等の軽作業のみで大したことはしていませんでしたが、出来ないなりにも真面目に仕事に取り組む姿勢は貫いた自負だけはありました。それらが評価されたのか、ただ単にGさんがもともとそれだけ嫌われていたのか、今となってはわかりません。新年度、そのGさんは移動となりました。

修行時代に貫いた仕事に対する姿勢

ちなみに私、小さいころから要領がいいよなって親から言われて育ってきました。あからさまに狙ってるわけではありませんよ。あくまでも生きていく上での知恵です。人様に嫌われて生きるよりは、そりゃ好かれて生きた方が過ごしやすいじゃないですか。悪い言い方をすれば自己顕示欲が強いとかナルシストの部類に入るのかもしれません。悪い方向ではなく良い方向でナルシストになる、修業時代には整備技術と共にそれらの術も鍛えられような気がします。何も太鼓持ち的な特別なことはしていません。本当に基本的なことなんです。まず朝の話。誰よりも早く出社すること。鍵を持った上司が出社する前には毎朝勝手口の前で待機していました。工場に入ると正面玄関を開け、場内の車両を駐車場に出して整理して駐車、工場の床に水を撒いて洗剤を撒いて床掃除開始。その辺りになると他の先輩も出社してきますので、先輩や上司に1人1人ちゃんと目の前に行って朝の挨拶。お客様に対してもそうでしたが、特に挨拶だけは気を付けていて手を抜きませんでしたね。整備作業で必要となる軍手とかケミカル用品などの消耗品など、先輩の工具箱にも目を配らせていて部品課から調達してきて補充したり、油脂庫内のオイル関係の在庫もまめにチェックして空のドラム缶を入れ替えたりとか、仕事が出来ない分そういった雑用は率先してやっていました。たったこれだけのことですが、僕がこの職場を辞めるまでの5年間、きっちり欠かさなかったことです。それらが功を奏していたわけかわかりませんが、上司には本当にかわいがってもらいました。部長が昼会議で愛妻弁当が食べれなかった時、僕に食べていいぞと数えきれない回数いただきました。毎回お茶まで入れてくださいましたっけ。安月給で食うのに困っていた時代にいただいたお弁当の味、心にしみわたりました。あ、夏場たまに傷んでたのはここだけの話です。あと営業所長には本当によく飲ませていただきましたね。なんか息子さんと同い年だそうで、独り暮らしの僕が放っておけないとおっしゃっていました。飲みに行くたびに毎回テーブル一杯に料理を並べてやれ食えそれ食えと、店を出るころには腹が破裂する勢いでした。あれは僕が長期の免停になった時、違反者講習受講のため三田洞の免許センターまで2日間も送り迎えをしてくださったこともありましたよ。しかも食事付きで。所長は第二の親父のような存在でしたね。ああ、忘れていけないのがT先輩。僕がGさんにいじめられていた時も親身に相談に乗ってくださって上司に証言もしていただきましたっけ。私が在職していた5年間、平日でも休日でも仕事終わりによく一緒ご飯に行きました。なんか本当にずっと一緒に居てくださったんですよ。年は7つも8つも上なのに、私が唯一敬語を使わないタメ口で話せる先輩でした。三菱時代、僕が辞めずに勤めてこれたのもTさんのおかげです。もう本名出しますが、辻さん、ありがとうございました。
あ、余談ですが三菱在職中に仕事での辛かった思い出の中の1つ。平成12年に発覚した「リコール隠し」って皆さんも記憶にあると思いますが、わたくしあの騒動の渦中に居ました。あれは三菱の末端に居るサービス工場の人間が一番辛かったんじゃないでしょうか。ただの故障もリコールだとお客様から理不尽に叱られ、次から次からとメーカー側から出される膨大なリコールに作業が追い付かず帰宅も午前様な毎日。挙句の果てには私の実家が高山だということで、リコールでてんてこまいになっている高山営業所を明日から手伝ってこいといきなりの辞令か下り2カ月も飛ばされる始末。本当にメンタル面が相当鍛えられた騒動でした。

帰郷、そして岩田自動車へ入社

平成15年春、5年間務めた三菱を退社し高山に帰郷しました。そのころの私はには整備士としての基礎的技術や、多少の接客作法は身についていましたが、それは所詮雇われの身分でのこと。ここからが本当の意味での修業が始まりました。なにしろ三菱の車しか見てこなかったわけですから、他社の車の勝手がびっくりするぐらいにわからないんですよ。オイル交換するにしてもオイルを抜くネジ穴がパッと見でわからないんです。メーカーによって構造の傾向が違うので目が慣れるまで違和感が凄かったですね。やはりディーラーにいると比較的新しい車がほとんどで最新の知識は身に付きますが、古くなって過走行な車を整備したり故障修理をする経験があまり得られず、重整備になると外注丸投げ、直すというよりは部品交換屋に近いものがありました。なんでも扱う町工場で実際に働いてみると、ディーラー勤務だと整備の技術が偏りがちになるんだなぁと改めて実感したもんでした。そんな整備士第2章を歩み始めた私でしたが、やはり実家となると甘えやだらけがでてきてしまい、仕事は普通にこなしていましたが私生活が一時荒れていましたっけ。二十代半ばから三十代半ばのおよそ10年ほど、相当遊ばせていただきました。しかし、公私混同だけはしないように一線を引くことだけは肝に銘じていましたよ。これまでに困難を極める難題な仕事にも幾度となくぶち当たってきました。自分なりにあれこれ調べ上げ、解決策を練り、さらにどうしたらもっと早く作業ができるのか復習と応用は常に忘れませんでした。幾年もそんな実務経験を重ね続け至った昨今、技術面では大概のことには動じることなく対応できるようになったと自負しています。

社長交代

仕事に対する心構えが更に変わる転機になったのが平成27年に社長を交代した時でした。父も70を超えて体力知力に相当の衰えが見えてきた頃です。お客様に言われたことをすぐに忘れる、仕事が遅いし雑になる、今まで出来ていたことが段々出来なくなってきた、すぐに疲れる、あちこちで車をぶつけてくる、これらが笑えないレベルに達し、さすがにヤバいなと危機感を覚えましてね。それまでは父も元気でしたので頼りっきりになっていましたが、それが出来なくなり私の尻に火がついた、そんな流れでした。父の老いでお客様に迷惑をお掛けすることだけは避けたかったんです。それに代が変わって業績が落ちたとか、やっぱ2代目はだめだと言われたくないじゃないですか。もう意地ですよ。誰かがやるだろうでは通らないんです。お客様の安心と安全を、従業員の生活を、私の家族を守るのも私なんです。相当な心理的圧力を感じましたが、その反面同じぐらいのいやりがいを感じるのも商売の醍醐味だと奮い立ちました。代替わりの当初は電話にしても営業訪問にしても「親父を出せ」で全く信頼を得られていない場面に出くわすことも多々ありました。それまであまり表舞台に出ていなかった私のせいでもあります。車を直す技術に長けていても、やはりお客様との関係は一夜にして築けるものではありません。親父のコピーではなく私色の車屋を作ってみせる、そう心に決めて2代目岩田自動車を船出させた以上、ただ突き進むだけだったんです。あれこれ父とも衝突しました。何とか軌道に乗せようと七転八倒の毎日でした。そして年月も経ちました。ある程度はお客様の心に近づけたのか、父の老いもあるのか、現在では昔からの馴染みのお客様から僕の携帯電話へ直にご依頼を受けることが多くなりました。昔は日曜日は普通に休んでいた僕でしたが、今ではいつ休んだのかわかりません。そんな時ふと思います。親父はずっとそうやってきてたなって。私なんかまだまだです。

そして未来へ

自動車整備業界も一昔前とは全く別物になっており、お客様が整備工場に求めるニーズも変化しつつあります。お客様となあなあな関係で車が直ってれば良かった的な昭和の時代とは全く違います。令和の時代になり他業種でもそうですが、企業が提供するサービスに対してのお客様の目はとても肥えてきています。修理屋ですので整備技術を備えているのはもちろんのことです。知識や設備が最前線に居られるよう率先して新技術新設備を取り入れていけるよう努めております。それ以外にもお客様が求めることを如何に察して迅速に提供することができるのか日々模索しております。堅苦しいことを言いましたが、とにもかくにも第一はお客さまの喜ぶ顔が見たい、お客さまの求めるサービスを提供したい、そんな思いで社員一丸となって努力を惜しまないことだと思っています。これからも社員一同、いつも感謝の気持ちを忘れずに、お客さま第一を考えた必要とされるサービスを提供できるよう日々努力し続け、成長を続ける会社でありたいと願っております。どうぞ無理難題をおっしゃってください。どうぞ気になることは叱ってください。お客様の心と愛車にこの岩田自動車をどうぞ寄り添い続けさせてください。今後とも相も変わらず末永くよろしくお願い申し上げます。

有限会社 岩田自動車
代表取締役 岩田 久宗

アクセス

41号線から苔川(すのりがわ)沿いへ向かって聖橋から川沿いで100m

お問い合わせ

有限会社 岩田自動車
〒506-0001 
岐阜県高山市冬頭町70
営業時間 9:00〜18:00
定休日:
日曜、祝日、お盆(8月14日~15日)、正月(12月31日~1月5日)

Tel.0577-33-5446
Fax.0577-33-5372

社長携帯.090-3250-4400(緊急時連絡先)
社長LINE ID.hisamune5326